沢田マンション
2011年07月03日
高知に”沢田マンション”という、セルフビルドのマンションがあるそうです。
本を借りて読みました。

以下ウィキペディアより引用
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

概説 [編集]
沢田マンションは、素人が独力独学で建てた鉄筋コンクリート造の建築物である。
沢田嘉農(さわだ かのう、1927年8月11日-2003年3月16日)は、高知県生まれ。幼少時に雑誌で見た「アパート」の様子に感動して、集合住宅の建築・経営を一生の仕事にすると思い定める。尋常小学校卒業後、祖父の援助を受けて、土佐の山中で移動しながらの製材業を始める。1年間の兵役を経験。27歳で高知県中村市(現在の四万十市)に移り、地元の製材所で働く。大工・建築の弟子入りや修業経験も無いままに、自ら現場を手掛けて住宅の建て売り販売・分譲を開始し、その後はアパート経営などにも進出。この間32歳にして、当時13歳の妻裕江(ひろえ、1946年 - )と実質的な結婚生活に入る[1]。
1971年、沢田嘉農が44歳の時、高知市薊野(あぞうの)に土地550坪を買い求め、沢田マンションの建設に取り掛かる。建設開始にあたって建築確認は取らないままであり、役所の対応も「強度に文句は言わないが、手数料の用意が出来たら許可は取ってくれ」という程度の、非常に大らかなものだったという。
30トンブルドーザーと大型パワーショベルを借り、地下6m以上を掘り抜いて、約10日間で岩盤に到達。その上に柱が建てられた。作業は、敷地内の西から東へと建て増すかたちで進行。鉄筋を配置した後のコンクリート打ち込みには、小学生の娘まで動員し「届かない足でレッカー車を運転して」生コンクリートを運び、セメントの練り込みをしたという。「設計図はわしの頭の中にある」と豪語して、きちんとした図面もつくらなかった。屋上には夫妻自作のクレーンや製材所も設けられた。
当初の構想は「10階建て・戸数100戸」という壮大なもので、最終形といえる現在は5階建て・戸数約60戸(一部6階建て)となっている。沢田夫妻の希望で初めは、母子家庭など社会的に困難な状況にある人々に対して積極的に貸されていたが、近年は若い人の入居が増加傾向にある。沢田嘉農の死去以降は、増築はされず改装や補強など現状維持にとどまり、今日に至っている。
家賃は2万円程度から5万円程度までとばらつきがあり、面積や日照条件、備品状況(クーラーの有無、改装の有無など)などを勘案した家賃設定となっている。部屋番号がバラバラなのは、建設当初入居者が決まった順に決定されたものであり、今なお宅配業者などの悩みの種となっている。また、一時期普通のマンションと同様に101、102といった形で付番されたこともあるが、住民の不評を買って元に戻された経緯をもつ。現在当時の付番の面影を残すのは202号室などわずかである。時折部屋の番号の付け間違いもあり、正しい番号(入居順)に訂正されることもあり、かえって部屋番号の混乱が深まることもある。
沢田マンションの歴史はまた、度重なる行政指導や工事中止命令などの軋轢の歴史でもあった。現在では、住民で自主防災組織を結成し、年に1度の避難訓練を行なうなどして、行政との関係も概ね良好である。
沢田マンションの形容として、「違法建築」「違法建築スレスレ」などとよく言われる。建築基準法における集団規定、単体規制への適合は別途検討の余地があるが、建築確認申請が出ていないというのは建築基準法第6条(建築物の建築等に関する申請及び確認)の規定に違反しているため、建築基準法第9条(違反建築物に対する措置)における違反建築物に該当する。しかし、多くの違反建築物と同様に、私有財産権の問題、入居者の居住権の問題などから、高知市役所建築指導課の努力にも関わらず、有効な指導が難しいのが現状である。
主な経過 [編集]
1971年(昭和46年) 第1期工事(50坪)開始。
1972年(昭和47年) 基礎工事、水周り工事終了、1階部分6戸完工、入居開始。給水用として裕江が削岩機を用い、敷地内に井戸を掘り当てる。
1973年(昭和48年) 第1期工事終了、4階建て24戸。スーパーマーケット開店、以後5年間営業。のちには、鮮魚店や焼肉店さらには露天風呂付共同浴場が設けられた時期もあった。
引き続き、第2期工事(140坪)開始。5階に大家である沢田夫妻の自宅住居を建設。高知市内初といわれる地下駐車場が完成(高さ3m、広さ140坪、収容台数25台。のちに270坪まで拡張)。
1975年(昭和49年) マンションの断熱を考えて屋上を土で覆い、畑作を開始。のちに水田にも。
1976年(昭和51年) 第2期工事終了。
1978年(昭和53年) 沢田嘉農、48人乗り大型バスを沢田マンション専用として購入。以後、嘉農自らの運転で住民が遊びに出かける際や、沢田家の家族旅行などに利用される。
1983年(昭和58年) 第3期工事(70坪)開始。
1985年(昭和60年) 第3期工事終了。建物として、おおむね現在の規模となる。
1989年(平成元年) スロープを設置。3階まで車が進入可能に。
1991年(平成3年) 作業用リフト完成。
1992年(平成4年)1月6日 5階沢田家が全焼する火事が発生。マンションに関わる初期資料の多くを焼失した。
1994年(平成6年) 道路から部屋を目隠しするため各階に、花壇を備えたテラスの整備を開始。
東西に伸びるテラスとスロープ。スロープ柱では耐震補強工事中 - 2005年2月1日撮影1996年(平成8年) 現敷地に10階建て共同住宅の建築を計画し、有資格者の作成による建築確認申請書を提出、建築主事より確認済証の交付を受ける。なお、現状の建築物とは別件の手続きである。
1998年(平成10年) 4階に沢田の孫のためプール設置を計画するも、「魚を飼いたい」という孫の意向で池(25坪)に変更。「沢田民宿」「沢田旅館」営業終了。
それまでの通常の入居に加えて、以後はウィークリーマンションのように、部屋の短期賃貸も行なう形式に。
1998年(平成10年)9月24日 98高知豪雨。高知市東部がほぼ2日間にわたり浸水。沢田マンション地下室も水没、油を近隣に流出させる事故が発生。
周囲の水田では収穫直前の稲に油が付着するなどの被害も発生したが、その年の収穫物を沢田が全て買い上げる形で解決を見る。
2001年(平成13年) 芝浦工業大学・東京理科大学合同チームで沢田マンションの調査が行なわれる。東京理科大学チームは翌年も調査を継続し、その成果は2002年度修士論文としてまとめられた。
2002年(平成14年)
4月1日 沢田マンション公式Webページ『沢マンどっと混む』開設。
6月 「第1回沢田マンション祭り」開催。5階屋上を中心に流しそうめんや飲み会などを行う。参加者数140名。
8月 日本建築学会の学術講演会で沢田マンションに関する発表が行なわれる。
9月 『沢田マンション物語』出版、高知県内でベストセラー。刊行当日、高知市建築指導課より建築行政指導が入る。この前後より20歳代 - 30歳代の住人が増加し、2004年頃には住民全体の3分の1にまで増加。
10月30日より高知市のギャラリーgraffitiにて「嗚呼沢田マンション27号室の日常展」を開催。
11月 上記展覧会の関連企画として「沢田マンション秋祭り - 月見の宴」を開催。山田太鼓や尺八などのライブの他、沢田夫妻提供による樽酒ふるまいなど。
マンション内のみどころを見てまわる「沢マンツアー」への参加者数はのべ130名を超えた。
沢田家の住居である5階屋上にかまぼこ形のリビングを増築。おおむね現在の外観となる。
2003年(平成15年)
3月16日 沢田嘉農、肝臓病で逝去。享年75。
夏以降に沖縄、広島、インドなどからの長期逗留客と住人の交流が重ねられる。
2005年(平成17年) 『高知遺産』にて沢田マンションを紹介。同書の関係者の三分の一が沢田マンション住人。同書に関連して8月には東京で「高知遺産いきなり東京展」を開催。期間中のイベントとして住人と沢田による「沢マンナイト」を開催。
2006年(平成18年)
1月 大阪で開催の「けんちくの手帖」イベントで「沢田マンション」がテーマになる。
4月から3か月間 期間限定のカフェ「weekend cafe sumica」が営業。
大家経営のアロマテラピールームが営業開始。
11月18日 「SAWAMAN EXPO 2006 沢田マンション秋祭り」を開催(住人の企画・運営による)。
ジャンベのワークショップ・カフェ・雑貨・マッサージ・美容室など20近い出店がマンション内各フロアに展開。過去最大の300名前後の集客を記録した。
2007年(平成19年)
地下発動機室を改造した多目的ホールが完成。
10月20日 地下多目的ホールにて藤島晃一ライブを開催。
2008年(平成20年)
2月24日 多目的ホールにてカレー大会を開催。
6月16日 3階 room21に、handmade・雑貨・小物・アンティーク・着物 などの雑貨ショップ、roiroi-open market-がオープン。
6月28日 地下多目的ホールにて良元優作×藤島晃一 沢マン LIVE開催。
イタリアンカフェChubby's Kitchenが1階にオープン。
11月2日 「沢田マンション 豊年祭」を開催。約1300人の集客を記録。
2009年(平成21年)11月22日 自主ギャラリー沢田マンションギャラリーroom38が1階にオープン
2011年(平成23年)8月28日 沢田マンション祭り「SAWA SONIC 2011」開催
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここらでは考えられない大規模なセルフビルドの建物。
個人の力で、このような建物を建てることができたということ驚きです。
屋上には田んぼ、貯水タンクにソーラー温水器。
マンション内の残飯から肥料。
5階まで車で上がれるスロープ。
マンションの中には、木工所もあり、建具等も作ることができるとのこと。
いろいろな発想とそれを現実にする行動力。
今の世、なければ買おう。
手間隙かけるくらいなら、買ったほうがまし。
そんな風潮、どこかにあるように思う。
足りなければ、増やせばいい
じゃなくて
足りなければ、足るようにすればいい。
身近にあるもので、生活を工夫すればいい。
いろいろな意味で、この沢田さんの生き方、見習いたいものです。
本を借りて読みました。

以下ウィキペディアより引用
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

概説 [編集]
沢田マンションは、素人が独力独学で建てた鉄筋コンクリート造の建築物である。
沢田嘉農(さわだ かのう、1927年8月11日-2003年3月16日)は、高知県生まれ。幼少時に雑誌で見た「アパート」の様子に感動して、集合住宅の建築・経営を一生の仕事にすると思い定める。尋常小学校卒業後、祖父の援助を受けて、土佐の山中で移動しながらの製材業を始める。1年間の兵役を経験。27歳で高知県中村市(現在の四万十市)に移り、地元の製材所で働く。大工・建築の弟子入りや修業経験も無いままに、自ら現場を手掛けて住宅の建て売り販売・分譲を開始し、その後はアパート経営などにも進出。この間32歳にして、当時13歳の妻裕江(ひろえ、1946年 - )と実質的な結婚生活に入る[1]。
1971年、沢田嘉農が44歳の時、高知市薊野(あぞうの)に土地550坪を買い求め、沢田マンションの建設に取り掛かる。建設開始にあたって建築確認は取らないままであり、役所の対応も「強度に文句は言わないが、手数料の用意が出来たら許可は取ってくれ」という程度の、非常に大らかなものだったという。
30トンブルドーザーと大型パワーショベルを借り、地下6m以上を掘り抜いて、約10日間で岩盤に到達。その上に柱が建てられた。作業は、敷地内の西から東へと建て増すかたちで進行。鉄筋を配置した後のコンクリート打ち込みには、小学生の娘まで動員し「届かない足でレッカー車を運転して」生コンクリートを運び、セメントの練り込みをしたという。「設計図はわしの頭の中にある」と豪語して、きちんとした図面もつくらなかった。屋上には夫妻自作のクレーンや製材所も設けられた。
当初の構想は「10階建て・戸数100戸」という壮大なもので、最終形といえる現在は5階建て・戸数約60戸(一部6階建て)となっている。沢田夫妻の希望で初めは、母子家庭など社会的に困難な状況にある人々に対して積極的に貸されていたが、近年は若い人の入居が増加傾向にある。沢田嘉農の死去以降は、増築はされず改装や補強など現状維持にとどまり、今日に至っている。
家賃は2万円程度から5万円程度までとばらつきがあり、面積や日照条件、備品状況(クーラーの有無、改装の有無など)などを勘案した家賃設定となっている。部屋番号がバラバラなのは、建設当初入居者が決まった順に決定されたものであり、今なお宅配業者などの悩みの種となっている。また、一時期普通のマンションと同様に101、102といった形で付番されたこともあるが、住民の不評を買って元に戻された経緯をもつ。現在当時の付番の面影を残すのは202号室などわずかである。時折部屋の番号の付け間違いもあり、正しい番号(入居順)に訂正されることもあり、かえって部屋番号の混乱が深まることもある。
沢田マンションの歴史はまた、度重なる行政指導や工事中止命令などの軋轢の歴史でもあった。現在では、住民で自主防災組織を結成し、年に1度の避難訓練を行なうなどして、行政との関係も概ね良好である。
沢田マンションの形容として、「違法建築」「違法建築スレスレ」などとよく言われる。建築基準法における集団規定、単体規制への適合は別途検討の余地があるが、建築確認申請が出ていないというのは建築基準法第6条(建築物の建築等に関する申請及び確認)の規定に違反しているため、建築基準法第9条(違反建築物に対する措置)における違反建築物に該当する。しかし、多くの違反建築物と同様に、私有財産権の問題、入居者の居住権の問題などから、高知市役所建築指導課の努力にも関わらず、有効な指導が難しいのが現状である。
主な経過 [編集]
1971年(昭和46年) 第1期工事(50坪)開始。
1972年(昭和47年) 基礎工事、水周り工事終了、1階部分6戸完工、入居開始。給水用として裕江が削岩機を用い、敷地内に井戸を掘り当てる。
1973年(昭和48年) 第1期工事終了、4階建て24戸。スーパーマーケット開店、以後5年間営業。のちには、鮮魚店や焼肉店さらには露天風呂付共同浴場が設けられた時期もあった。
引き続き、第2期工事(140坪)開始。5階に大家である沢田夫妻の自宅住居を建設。高知市内初といわれる地下駐車場が完成(高さ3m、広さ140坪、収容台数25台。のちに270坪まで拡張)。
1975年(昭和49年) マンションの断熱を考えて屋上を土で覆い、畑作を開始。のちに水田にも。
1976年(昭和51年) 第2期工事終了。
1978年(昭和53年) 沢田嘉農、48人乗り大型バスを沢田マンション専用として購入。以後、嘉農自らの運転で住民が遊びに出かける際や、沢田家の家族旅行などに利用される。
1983年(昭和58年) 第3期工事(70坪)開始。
1985年(昭和60年) 第3期工事終了。建物として、おおむね現在の規模となる。
1989年(平成元年) スロープを設置。3階まで車が進入可能に。
1991年(平成3年) 作業用リフト完成。
1992年(平成4年)1月6日 5階沢田家が全焼する火事が発生。マンションに関わる初期資料の多くを焼失した。
1994年(平成6年) 道路から部屋を目隠しするため各階に、花壇を備えたテラスの整備を開始。
東西に伸びるテラスとスロープ。スロープ柱では耐震補強工事中 - 2005年2月1日撮影1996年(平成8年) 現敷地に10階建て共同住宅の建築を計画し、有資格者の作成による建築確認申請書を提出、建築主事より確認済証の交付を受ける。なお、現状の建築物とは別件の手続きである。
1998年(平成10年) 4階に沢田の孫のためプール設置を計画するも、「魚を飼いたい」という孫の意向で池(25坪)に変更。「沢田民宿」「沢田旅館」営業終了。
それまでの通常の入居に加えて、以後はウィークリーマンションのように、部屋の短期賃貸も行なう形式に。
1998年(平成10年)9月24日 98高知豪雨。高知市東部がほぼ2日間にわたり浸水。沢田マンション地下室も水没、油を近隣に流出させる事故が発生。
周囲の水田では収穫直前の稲に油が付着するなどの被害も発生したが、その年の収穫物を沢田が全て買い上げる形で解決を見る。
2001年(平成13年) 芝浦工業大学・東京理科大学合同チームで沢田マンションの調査が行なわれる。東京理科大学チームは翌年も調査を継続し、その成果は2002年度修士論文としてまとめられた。
2002年(平成14年)
4月1日 沢田マンション公式Webページ『沢マンどっと混む』開設。
6月 「第1回沢田マンション祭り」開催。5階屋上を中心に流しそうめんや飲み会などを行う。参加者数140名。
8月 日本建築学会の学術講演会で沢田マンションに関する発表が行なわれる。
9月 『沢田マンション物語』出版、高知県内でベストセラー。刊行当日、高知市建築指導課より建築行政指導が入る。この前後より20歳代 - 30歳代の住人が増加し、2004年頃には住民全体の3分の1にまで増加。
10月30日より高知市のギャラリーgraffitiにて「嗚呼沢田マンション27号室の日常展」を開催。
11月 上記展覧会の関連企画として「沢田マンション秋祭り - 月見の宴」を開催。山田太鼓や尺八などのライブの他、沢田夫妻提供による樽酒ふるまいなど。
マンション内のみどころを見てまわる「沢マンツアー」への参加者数はのべ130名を超えた。
沢田家の住居である5階屋上にかまぼこ形のリビングを増築。おおむね現在の外観となる。
2003年(平成15年)
3月16日 沢田嘉農、肝臓病で逝去。享年75。
夏以降に沖縄、広島、インドなどからの長期逗留客と住人の交流が重ねられる。
2005年(平成17年) 『高知遺産』にて沢田マンションを紹介。同書の関係者の三分の一が沢田マンション住人。同書に関連して8月には東京で「高知遺産いきなり東京展」を開催。期間中のイベントとして住人と沢田による「沢マンナイト」を開催。
2006年(平成18年)
1月 大阪で開催の「けんちくの手帖」イベントで「沢田マンション」がテーマになる。
4月から3か月間 期間限定のカフェ「weekend cafe sumica」が営業。
大家経営のアロマテラピールームが営業開始。
11月18日 「SAWAMAN EXPO 2006 沢田マンション秋祭り」を開催(住人の企画・運営による)。
ジャンベのワークショップ・カフェ・雑貨・マッサージ・美容室など20近い出店がマンション内各フロアに展開。過去最大の300名前後の集客を記録した。
2007年(平成19年)
地下発動機室を改造した多目的ホールが完成。
10月20日 地下多目的ホールにて藤島晃一ライブを開催。
2008年(平成20年)
2月24日 多目的ホールにてカレー大会を開催。
6月16日 3階 room21に、handmade・雑貨・小物・アンティーク・着物 などの雑貨ショップ、roiroi-open market-がオープン。
6月28日 地下多目的ホールにて良元優作×藤島晃一 沢マン LIVE開催。
イタリアンカフェChubby's Kitchenが1階にオープン。
11月2日 「沢田マンション 豊年祭」を開催。約1300人の集客を記録。
2009年(平成21年)11月22日 自主ギャラリー沢田マンションギャラリーroom38が1階にオープン
2011年(平成23年)8月28日 沢田マンション祭り「SAWA SONIC 2011」開催
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここらでは考えられない大規模なセルフビルドの建物。
個人の力で、このような建物を建てることができたということ驚きです。
屋上には田んぼ、貯水タンクにソーラー温水器。
マンション内の残飯から肥料。
5階まで車で上がれるスロープ。
マンションの中には、木工所もあり、建具等も作ることができるとのこと。
いろいろな発想とそれを現実にする行動力。
今の世、なければ買おう。
手間隙かけるくらいなら、買ったほうがまし。
そんな風潮、どこかにあるように思う。
足りなければ、増やせばいい
じゃなくて
足りなければ、足るようにすればいい。
身近にあるもので、生活を工夫すればいい。
いろいろな意味で、この沢田さんの生き方、見習いたいものです。
Posted by ゆらぎ at 16:15│Comments(0)
│木工のこと